「人間はどこから来て、どこへ行くのだろう」
「なぜ生まれ、何のために生きているのだろう」
「死んだらどこへ行くのか、どうなるのか」
「人生をどう生きてゆけばいいのか」
「神、仏はあるのだろうか」
これらの根本的なことが解らない限り不安な日々を送ることになり、気づかないうちに心も肉体も得体の知れないものに蝕(むしば)まれ、我に返った時「私の人生は一体何だったんだろう」と、大きな悔いを残すことになるでしょう。
しかし、その疑問を解決する道を説き明かされ、 証明されたのが、高橋信次先生だったのです。
GLAは、正法という釈迦の教えた大自然の調和された循環の法と 慈悲と愛について教えている。
釈迦は宇宙即我によって神の意思を悟り、プッタ(仏陀)となった。そして真に安らぎのある至福者となられた。多くの衆生がプッタの安らぎに近づき、近づこうと願うなら、この世はそのまま地獄から仏国土となろう。
高橋信次先生は、末法と化した現代社会に正法という法灯をともし、二千五百有余年前のインド時代の衆生の喜びを再び蘇らすべく、人びとの教化にご自身の生涯をかけられました。
GLAは、その釈迦の神理を世に伝えるべくつくられたのである。
Gはゴッド=神または神理、Lはライト=光、Aはアソシエイション=会。
つまり、『神理の会』というのがGLAである。
人々が正法を実世界に表わすにはどうすればよいか、安らぎのある生活を 送るには、正法を貫く中道の心を自覚することである。中道の自覚は八正道の実践しかない。
一、正見。二、正思。三、正語。四、正業。五、正命。六、正進。七、正念。八、正定である。
この八つの実践によって、中道の心を知り、自覚が芽生え、如心の境地に到達する。
人びとに慈悲の心で接し、愛の行為が行えるようになるには、こうした如心の境地に進む ことによって、より可能となるのである。つまり、菩薩行がつつがなく行えると言えよう。
GLAは釈迦の正法を根本として慈悲の心を、そしてイエスが説いた愛の行為を教えているのである。
世が末法になると他力の信仰が流行(はや)ってくる。
他力とは文字通り他の力を借りる信仰である。阿弥陀にすがって、念仏を唱えれば極楽往生間違いなしというわけである。仏教も変われば変わるものである。二千五百有余年前の釈迦は他力の信仰は一つも教えていない。イエスが教えたキリスト教にしても今日では祈り一辺倒の他力と化している。
人間は神の子であることはプッタが悟った。
神は天地を自らの意思で創られたように、人間神の子もその運命と環境は自らの手によって調和させていかねばならないのである。
プッタは神の子の自力を教え、イエスは神の子の愛の実践行為を説いた。
それが今では念仏や祈りが信仰というわけである。
明日の運命も分からぬ肉体人間の思念と行為を思えば、他力の信仰を一概に責めるわけにもゆかないだろう。しかし、人間は神の子であり、他力の果ては自己満足を助長し、一方では無気力な人間をつくっていく。宗教が為政者と結び、衆生を苦しめたのも他力の故であり、盲信・狂言のアヘン患者が出るのも他力の害毒といってもいい。二十世紀の今日といえどもまだこの弊害が続き、信仰の名の下に争いが続いている。
神は平和を求めている。
他人にはウソは言えても己の心にウソの言えぬその心が神の子の証なのである。
とすれば、人はその心を大事にし、その心にしたがって、神性仏性の自分を自らの手で 育てることが信仰ではないのか。
つまり、神は我が心に宿っており、ならばその心に忠実であることが神の子の義務であり、責任ではないか。
正法は自力である。神の子の自覚にもとづいた自力である。我欲を果たそうとする自力ではない。
求め、努め、勇気を持って歩む者に、神は光を与えて下さる。
神は自ら努める者に安らぎと調和を与えることを知るべきであろう。
この世のすべての物は循環の法則の下にある。
水は気体、液体、個体の循環を繰り返し、一日は朝、昼、夜の周期を維持している。
こうして、物質とエネルギーは神の偉大な意思と働きの下で、永久運動を続けている。物質もエネルギーも永遠にして不滅である。
人の魂もこれと同じように、この世を去ればあの世の生活が待っており、やがてこの世に再び誕生する。そうして、個の魂をより豊かに、より調和すべく永久運動を続けている。
GLAでは、魂の不滅についての実証がなされている。
インドに、イスラエルに、エジプトに、スペインに、イギリスに、ドイツに、ベトナムに、 チベットに、中国に、その当時の言葉を語ってくれる。
千五百年前に中国で生まれ、当時の名前はこうであり、生活環境は厳しかったが、しかし 学んだ事柄は内容的には現代と少しもかわらないということを話してくれる。
これら霊道者の人びとは、インド語も、エジプト語も、スペイン語も習ったことがないのである。
ところが、現代にも通用するその言葉を、いとも簡単に語ってくれるのだ。 ふつうでは信じられないことである。釈迦時代、イエス時代しか、こういうことは今まで起こったことがないのだから。
こうした現象(現証)はGLAでは発足したその時から現われ、霊道者と証する人びとが多く出ている。
霊道によるこうした過去世の言葉は魂の永遠不滅と転生輪廻を示す偉大にして価値ある実証といえよう。
しかも霊道現象は、高橋信次先生の光によってその門がひらかれ、霊道者自身が中道の生活を実践することによって与えられるのである。
私たちの記憶は通常、脳の中にしまわれているとみられている。医学の発達によって肉体の死は生命の死につながるように思われているが、ではGLAで起こっている霊道現象を医学でどう説明するのだろう。
もし肉体の死によって記憶の一切が消えてゆくとすれば、霊道現象が教える過去世の実証はどう答えたらいいのだろう。
仏教のなかの華厳経は主に霊的な問題を扱った経文として知られている。
そのなかの十地品第四章二十は、過去世の記憶について累々述べている。
「彼はいろいろな名前の住所を記憶する。一生を記憶し、数百年、数千年、数億年を記憶し……」
当時の人はプッタの光によって霊道をひらき潜在意識に記録されている過去世の記録をよみがえらせ、過去世の生活を思い出し、言葉を語ったのであった。
新約聖書使徒行伝第二章にも同じようなことが載っている。
「……みよ、この語る者は皆ガラリヤ人ならずや、如何にして、我等おのおの生まれし国の言葉を聞くか……」
十一人の使徒達は、イエスが十字架の人となり、五十日を経ったある日、突如として霊道をひらき、各国の言葉を語り出したのである。
インドの当時は、プッタの在世中に数万の人びとが霊道をひらき、過去世の言葉を語り、神理を説き、多くの奇跡を遺した。
イエスの使徒達も、霊道をひらくことによってイエスを信じ、神の子の自覚に燃え、伝道に生命を投げ出した。