現代に生きる私たちは、肉体の五官のみを頼りにして、肝心要の肉体舟の船頭さんである魂と、その中心である心というものが分らなくなっています。
私たちは、その五官をもとにして、生まれた環境や教育や思想や習慣に影響され、大切な心の指針を身失っています。その結果、両極端な物の考え方をしてしまい、家庭や職場の中が不調和となっています。
この盲目の人生の中では、己れ自身に噓のつけない善なる心をもとに生きることが大切です。しかし、肉体をもってしまうと、自分だけという自己中心的な考えになってしまい、万生万物がすべて相互関係の中に安定しているという自然界の姿を無視してしまいます。その結果、自分の心に苦しみを作ってしまうのです。
また、この地上界におけるすべての諸現象は因果関係の中にあります。それを、ともすると自分の苦しいことを他人のせいにしてしまいます。苦しみが生ずるには生ずるだけの原因が自分のなかにあるのです。そのことを知るなら、ひとのせいにするということは非常に愚かしいことだと言わなくてはなりません。
現代のように人間の心が常に荒み、人を信ずることなく闘争と争いを繰り返し、混乱した心の状態をこれからも作り出してゆくならば、真に人びとの心に安らぎというものは生まれてはこないでしょう。
私たちが、真の安らぎを得たいと願うならば、この世の価値観を形作っている物質と経済について問い直してみる必要があると思います。即ち、文明だけが人類の為にあるのか、そしてまた人類は物質文明の発展の為に存在しているのか、ということを考え直さなければならないでしょう。
神はすべて必要なものは私たちに与えてくださっています。もしお金が人間にとって必要不可欠なものならば、生まれてくるときに持ってきた筈です。しかし、人は裸で生まれ、裸であの世に帰るのです。私たちの肉体はあくまでも人生航路の乗り舟であり、その船頭さんである心には偉大なる知恵が内臓されています。その知恵をひもとき、煩悩即菩提となったとき安らぎに至るでしょう。
かつては人間の生活環境を平和で調和されたものとするために考えだされたものが、いつしか混乱を呼び、それによってひきおこされた物質文明の歪みが新たに公害を生んできたのです。
太陽の熱・光のエネルギーや、大自然の春夏秋冬に見られる調和された姿は、神が私たちに与えてくださった偉大なる贈り物なのです。私たちはそのことに対して感謝の心を持たなければなりません。そして、太陽や大自然から学んだものをもとにして、人間同志がお互に愛の思いで協力しあったなら、公害を出すこともなく、調和のとれた世界を建設することができるでしょう。
そのためには、一人一人が他力本願ではなく、自ら心にスモッグを作らないような環境を作る努力が必要です。己れ自身の思うこと行なうことを中道という偏らない心で顧み、修正したとき、スモッグは晴れ、私たちは神の光によって生かされ、必然的に偉大なる他力の力を得ることができるのです。
私たちは自力により、偏らない心で正しく相手の言うことを聞き、見、そして語り、思うことが大切です。思うということは、ひとつの物を作り出す能力を持っています。ですから、思うということだけでも正しく思わなければいけません。自分の心の中に、相手を恨み、妬み、謗り、怒る心を持っていたなら、思いを通して現象化されていくことを知らなければならないでしょう。
私たちの思ったこと、行なったことの一つ一つをよく反省し、豊かな心を作ってゆくこと。それには先ず自分の欠点というものを見究め、その欠点を修正する以外に方法はないのです。
私たちは、生まれてきたときは誰もが丸い豊かな広い心を持っていました。しかし煩悩があるために、苦しみ、悲しみ、心の中にひずみを作ってきてしまったのです。そのひずみを勇気と知恵と努力によって修正し、常に自分の心が丸く豊かで、動揺しない自分の本性というものを作ることが大事になってきます。
こうして私たちは一日一日の積み重ねによって、生まれてきたときの心より更に広い豊かな心を、煩悩のある中で作ってゆくのが人生の大きな目的なのです。同時に、この地球は大宇宙体の中の小さな細胞にしかすぎません。この細胞を、私たち一人一人が心と心を合わせることによって調和し、大宇宙をも調和するというのが人生の大きな目的なのです。
私たちの肉体には、胃腸の中に入ってきた動物性のものや植物性、鉱物性の食物を分解していく役目をもった酵素というものがあります。地球という環境に住む私たち人間も、大宇宙という身体から見れば、酵素と同じように極微のものであると同時に、身体を調和させる役目を荷ったものなのです。
その極微の世界に住むもの同志が、自己中心の考えから争いや闘争を行なうというのは、非常に愚かしいことと言えるでしょう。
私たちが、眼耳鼻舌身という五官煩悩を持ちながら悟るには、どうすればいいのか。神は私たちに反省という慈悲を与えてくださっています。振り返りみることです。自分がいまやっていることは良いことかどうかを考え、間違いがあったならば改めることです。ものの判断が自分中心になっているから、相手を憎らしく思い、恨めしくもなるのです。基準を偏らない心、中道に置くことです。
(次号につづく)