(前号より)
人間には、このように光子体というもう一つのボデーを持った意識体というものがあって、その意識体が肉体を動かしているのであります。このように人間は、肉体と精神とを切り離して考えることは不可能であります。肉体的な苦痛は精神的苦痛につながってきます。それは、肉体の苦痛が光子体の苦痛であるからで、肉体の健康な時は光子体の健康を意味しているのであります。
たとえば、ある仕事を成し遂げるために肉体を酷使して、毎日夜の二時、三時まで仕事に精を出したとしましょう。気持ちが張りつめている間はあまり疲労は感じないでしょう。しかし、肉体には個人差はあってもその肉体を維持する最低の条件があります。こういうことを続けていると、その人は病気という結果を生み出してゆきます。肉体には運動と休息というものが必要なのです。もちろん精神も一緒であります。こうした原理・原則を無視して心が先走って肉体を酷使すれば、弾性の限界をはみだし、病気という結果を招いてしまうのです。
また反対に、肉体保存にばかり意を注いで、精神活動を疎かにしてゆくと、精神の進化は遅れて肉体も退化してゆくのです。運動もせずに暖衣飽食をしていると、肉体に抵抗力がなくなり、ちょっとした風邪をひいても、大病を誘発するようなことになります。
適度の精神運動と適度の肉体運動は、健全な精神と肉体を保ってゆく上に必要欠くべからざるものであります。
また、人は環境によって物の見方も、性格、心の持ち方も変わってまいります。経済的に非常に苦しかったり、逆に、非常に恵まれた環境の中にあると、人間はどうしても自己を発見するということが難しいものであります。金がたくさんあるとつい好き勝手なことをし、反対に、貧乏をして明日のパンにも事欠くような状態であると、人のことなど構っておれなくなってしまうのです。
ここで中道というものが大事なことになってくるのです。中道とは文字通り真ん中の道であります。真ん中とは円であれば円の中心、要であり、それを知るにはまず自我に基づいた考え方を改めなければなりません。中道の心は自我を離れた客観的な立場に立たなければ見出すことは出来ないのであります。
中道の心とは私心のないことです。神の尺度です。この神の尺度に立った時に初めて正しい判断が出来、精神と肉体、環境の調和というものは生まれてくるのです。
「一切の諸現象に対し、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をなし、正しく生き、正しく道に精進し、正しく念じ、正しく定に入るべし。
かくの如き、正法の生活のなかにこそ神仏の光明を得、迷いの岸より悟りの彼岸に到達するものなり。このときに、神仏の心と己の心が調和され、心に安らぎを生ぜん。心は光明の世界に入り、三昧の境涯に到達せん。」
中道の道を歩むために、では具体的にどうすればよいのか。それには中道の目的を適える八正道しかないのであります。
正しく見る、思う、語るの三つの精神作用は、人間がこの世で生活する上に最も大事な、そして基礎的な部分を占めています。煩悩という迷いが生ずるのは、見たり、聞いたり、話したりすることが多いから起こるのであります。私はまずこの三つを八正道の冒頭に上げ、「正しく見る」とは、心の眼で見よ、「正しく思う」とは、頭で考えず心で考えよ、「正しく語る」とは、心で考えたことを語るようにせよ、と言っているのです。
「正しく仕事をなす」ということは、与えられたその職務に対して忠実に、義務と責任を果たすことです。
「正しく生活する」とは、日常の生活のことです。現在の環境、立場、そして生きていられる、そのこと自体に感謝することです。物一つ求めるにも多くの人々の労苦があり、助けがあり、太陽や水の自然の恵みという保護があるのです。正しく生きるには、まず六根に左右されない自分をつくってゆくことです。それには自分の短所、長所を正しく見つめ、短所を修正し、長所を伸ばしてゆくことです。
「正しく道に精進する」とは、主として人と人との関係であります。夫婦、親子、兄弟、友人などは、それぞれの因縁あるいは約束の下に結ばれているのですから、我欲に基づいた自己主張をせずに、愛・調和ということを目標に、毎日の生活を送ることであります。
〝念〟の正しい在り方は、中道に適った調和を目的としたものでなければなりません。念というものは、たいてい自己の欲望をもととしたものが多いのです。それゆえに、欲望は際限なく発展してゆくものですから、やがては人と人との調和を欠くことになってきます。欲望はこれでよいというキリがありませんから、常に足ることを知った生活、祈る心を忘れないことが必要なのであります。
最後に「正定」ですが、これは反省です。これまでに述べた七つの規範というものに照らしてみて、今日一日の自分の想念と行為に、行き過ぎた点はなかったか、また気後れがして善事が出来なかったというようなことはなかったか、このようなことを振り返ってみて、正しくないことがあったら明日からそれを改めるということです。
反省の重要な点は、ただ単に、ああ悪かった、ああ良かったで終わってしまうのではなく、悪かった点は明日からはそれを二度三度繰り返すことなく改めてゆくことであります。反省は行為に移してこそ初めて意義を持つものです。意義とは、精神と肉体がまず健全になり、家庭の調和、職場の調和、そして社会の調和につながってゆくことを意味するのであります。正定の基本はまず反省にあることを肝に銘じてください。
このようにして人間の日常生活も、こうした正しい法というものに乗った生活こそ大事なのです。正法とは、正しい法、万古不滅の神の理、宇宙の法則をいうのであります。
正しき行為は、正しい結果としてその人の人生、健康、環境を整えてくれます。大自然の運行が、これを如実に示しております。狂いのない自然の運行があればこそ、私たち人間はこの地上で生活をしてゆくことが出来るのであります。
神仏は存在しております。存在しないと見るのは、心を正しく見ることの出来ない人の言うことなのです。心を素直に、正しく見ることが出来て、その心で想念と行為を正すように努めるならば、神仏は誰彼の区別なくその前に現れます。神仏は決して沈黙を守っているのではありません。神仏をして沈黙させる原因を人間がつくっているために、沈黙せざるを得ないのであります。
三味の境涯は、人が心を取り戻した時、すなわち神仏の心と己の心が調和された時に、心の安らぎという無限に響きをもって包んでくれるのであります。
正法は誰のためでもなく、それは皆さま自身のためのものであるということをよく理解して、日常の生活の中に実践をしていただきたいのであります。
(おわり)