(前号より)
「神仏の大慈悲に感謝し、万生相互の調和の心が、神意なることを悟るべし。」
神仏の大慈悲に感謝する。所詮太陽の熱・光のエネルギーを無償で神が与えている。その結果が地球上の樹木や草花を咲かせ、又我々の生活環境のためにその物を与えております。このような慈悲と愛に対し、ただありがとうございますでは困ります。ただ感謝だけでは一方通行です。報恩という行為が必要なのです。報恩という行為は、人のため、社会のため、人類のために、経済力のある人は経済を以て、体力のある人は労力を以て、あるいは私の家を使って下さい。米が沢山あるから米を使って下さいと、このように自分の出来得るものを以て気の毒な人たちに愛の手を差しのべる、これが感謝と共になすべき報恩の行為なのです。それを私たちは忘れているのです。
インドの当時、ゴーダマ・シッタルダーは善き友を持てと教えました。善き友というと殆どの人は、自分の都合のよい時だけ協力してくれる人を善き友だと思っております。これを善き友と思ったらとんでもないことです。善き友というのは、お互い苦しい時に助け合い、相手が苦しい時にはそのために協力を惜しまず、心と心が結びついた、このような人たちが本当の善き友なのです。ややもすると私たちの善き友と言えば一方通行の善き友であります。そのようなものでなく、お互いのために、調和と安らぎのために、又平和な心をつくるために、このような環境が必要なのです。
「肉体先祖に報恩供養の心を忘れず、両親に対しては孝養を尽すべし。心身を調和し、常に健全な生活をし、平和な環境を造るべし。」
我々は肉体先祖を通じてこの地上界の環境に舟を頂いた。それに感謝する心は親孝行の行為になってくるのは当然のことです。最近自分の主義主張のために親の言うことも聞かず、自殺をした例がありましたが、このような事は一番の親不孝者です。
我々はそういうことであってはなりません。両親に対し、育ててもらったことにただありがとうございますではなく、経済的にも、精神的にも、又肉体的にも、いろいろな角度から親孝行をしなくてはならないはずです。苦しい親不孝ばかりしていて、この地上界を去って、今度「お父さんになって下さい」と頼んだ時、「あの時大分親不孝をしたからお前なんかの親にはなってやらないよ」と断られます。そういうことを考えたら余り親不孝をしない方が良いと思います。
「肉体保存のエネルギー源は、万生を含め、動物・植物・鉱物なり。このエネルギー源に感謝の心を忘れず。」
皆さま自身肉体保存が可能なのは、動物、植物、鉱物というエネルギーがあるから出来るのです。そのエネルギーに対して感謝する心を忘れてはならない。その理由は、たとえ米粒ひとつにしても、彼等は命を投げ出して人類の血や肉、骨となることに彼ら自身の修行を持っているのです。それ故に、動物、植物、鉱物というエネルギーに対して感謝することとは、粗末にするなということです。それを、有り余っているからこれぐらいはいいだろうと無駄にする。感謝する心があるならば、その物を粗末にしないようにすることが第一だということです。
「日々の生活のなかにおいて、己の魂を修行すべし。己の心、意識のエネルギー源は、調和のとれた日々の生活のなかに、神仏より与えられることを悟るべし。」
人間には肉体のほかに、意識というものがあります。すなわち精神であり、心です。心配事や勉強等の精神労働に対して、そのエネルギーの補給は睡眠によって得られますが、最も大事なことは調和であります。神の心を心とした心、調和の毎日を過ごすことが出来れば、その意識は常に健全に保たれ、エネルギーの限りない補給が続きますから、普通の何倍ものエネルギーを消費しても疲れを知りません。エネルギーの源は神仏です。
人間は神仏の子ですから、神仏に眼を向け、調和の心を忘れなければ、神仏の保護を受けるのは当然のことです。ウソのつけない己の心を信じ、ウソのない毎日を続けることによって、神仏の加護を受け、魂の修行を重ねてゆくべきでしょう。
「己の肉体が苦しめば、心悩乱し、わが身楽なれば、情欲に愛着す。苦楽はともに、正道成就の根本にあらず、苦楽の両極を捨て、中道に入り、自己保存、自我我欲の煩悩を捨てるべし。」
肉体と精神というものは、通常は不離一体です。それ故に、肉体が痛むということは、肉体に密着している光子体が痛むということであります。肉体と光子体は神経繊維によってつながっております。神経の通らない肉体は、単なる「モノ」に過ぎないのです。戦場や交通事故によって腕や足の神経組織が寸断されたりした場合、その腕なり足は、外傷を受けても痛くも痒くもありませんから、やがて腐って役に立たなくなってしまいます。また、足や腕を切断して義足や義手をはめていながら、その義足や義手の部分がムズ痒いことがあります。これは肉体はなくなっても、光子体の足なり手なりの部分は切断されていないということなのです。
(次号に続く)