(前号より)
「己が前世の約束を忘れ、自己保存、自我我欲に明け暮れて、己の心の魔に支配され、神意に反し、この現象界を過ぎ行かん。」
末法の世の中になりますと心の規準というものがなくなります。では、正しい判断をするのにはどのような物差しによって計ればよいか、それは八正道なのです。心を丸くするには八正道以外にはありません。常に正しく見て、自分の心のどこに歪みが出ているかということがハッキリと解ってくれば、生活の中で間違ったことは行われません。少なくとも私の話を2回~3回聞いている人たちは、物事に対して即座に理性が働きます。現象が起これば、これは善い事であろうか悪い事だろうかというブレーキがかかります。 しかし、神理を知らない人たちはこのブレーキすら持ち合わせがないのです。皆さまが日々のテレビのドラマを見ても物の見方が変わってきたはずです。それが当然なのです。日々の中に我々は心の普遍的なことを知り、常に安らぎと調和という習慣を己の心の中につくっていった時、皆さまはより調和された光の世界に心は進化してゆくのです。
「また、生老病死の苦しみを受け、己の本性も忘れ去るものなり」
というのも、人間は死ぬのが怖い、そして年を取るのも、病気をするのも総て苦しみだ。しかし人間はその苦しみがあるだけに修行が出来る。そしてその苦しみから解脱出来るのです。私はその苦しみを解脱する道を説いているのです。苦しみを解脱する道は、己自身が足ることを知った正道の道を行じて心が浄化されてゆけば、皆さま自身はあの世に帰る自分の道ですら行って見ることが出来るのです。そうなれば現在持っている肉体は、人生航路を渡ってゆくためのただの乗り舟であって、あの世に帰る時にはまた新しい肉体を持って、あの世へ帰る自分の生活環境を見届けてくることも出来るのです。
そういうことがハッキリと解れば、死ぬということも怖くはありません。怖い原因は執着があるから怖いのです。その執着というものを我々は生活行為の中から一つひとつ取り除いていった時に、皆さまはより広い大きい心に進化してゆくのです。そこで生老病死の苦しみの原因は総て自分がつくり出している。「その原因は煩悩なり。」と書いております。
前述したように、煩悩は眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が総てである。この六根の調和は常に己の正しい心に問うことであります、すなわち、
「煩悩は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が根元なり、六根の調和は常に中道を根本として、己の正しい心に問うことなり。己の正しい心に問うことは、反省にして、反省の心は、己の魂が浄化されることを悟るべし。」
皆さま自身が自分の為した想念と行為というものを、しっかりと八正道の物差しで反省した時に、反省によって心の曇りを晴らすことが出来るのです。これが禅定です。朝から夕方まで何をしてきたか、人を恨まなかったか、自分の都合だけを考えなかったか、主人に対してぞんざいな口をきかなかったか、このように一つひとつを正しく反省した時に、皆さまの心の引っ掛かりはなくなっていきます。心の曇りがなくなりますから神の光によって覆われます。
我々の心は一念三千、自在に変化をしますが、常に正道という状態に己の心を戻すこと。魔訶止観と言って中国の天台智顗というお坊さんが発見をしております。止観というのは、己自身の心を止まって見る、これは反省ということです。人間はこの地上界に出てしまえば僅か10パーセントの表面意識で修行をしているために間違いを犯すのです。しかし、過ちを改むるに憚ること勿れ、間違いを犯すから修行が出来るのです。一歩下がってその間違いの原因をしっかりと究明して、二度と間違いを犯さないように生活することが大事なのです。私たちは孤独ではないんだ魂の兄弟たちがいるんだ、すなわち、
「己自身は孤独に非ず、意識のなかに己に関連せし守護・指導霊の存在を知るべし。守護・指導霊に感謝し、さらに反省は己の守護・指導霊の導きを受けることを知るべし。」
皆さまにはそれぞれ守護霊がいるんですから、皆さまの心が更に調和されてくれば、守護霊自身が姿を見せることがあります。それは日本人である場合もまた外人である場合もありますが、守護霊は必ず皆さまのために協力しているのです。守護霊というのは皆さまの魂の兄弟たち、あるいはまた皆さまに関係のある友達がいろいろと協力してくれます。私の守護霊の何人かは、指導霊として人々についている場合があります。また仕事の内容によって守護霊、指導霊は違ってまいります。このように皆さまは守護、指導霊の導きを受けているのです。
「六根あるがゆえに、己が悟れば、菩提と化すことを悟るべし。」
と言うことは、我々は煩悩を縁としてその苦しみから解脱することが出来るのです。
この菩提というのは、たまたまゴーダマ・シッタルダーが大きいピパラーという大木を背景として、その場所でもし悟れなければこのまま死んでしまおうと、一切の執着を断ち切って、一週間目についに宇宙即我、色心不二という己自身の神理を悟ります。そのために悟りの意味を菩提樹という木になぞらえて、中国においては菩提と化すと言ったのです。眼耳鼻舌身意という六根より生ずる煩悩が菩提と化すことが出来るのだということです。ややもするとこのために私たちは間違いを犯す。しかしこの間違いを二度と犯してはならないということです。私が言っているのはこの意味です。
(次号に続く)