(前号より)
「肉体を有する現世の天使は、諸々の衆生に正法神理を説き、調和の光明へ導かん。この現象界におけるわれらは、過去世において、己が望み、両親より与えられし肉体という舟に乗り、人生航路の海原へ、己の意識・魂を磨き、神意の仏国土を造らんがため、生まれ出でたることを悟るべし。」
これは当然我々が生まれてきた目的と使命というものを明記したものです。
「肉体の支配者は、己の意識なり、己の意識の中心は心なり。心は実在の世界に通じ、己の守護・指導霊が、常に善導せることを忘れるべからず。善導せるがために己の心は、己自身に忠実なることを知るべし。」
皆さま自身は、ややもすると一人でいると寂しいと思う。しかし皆さまの心の中には次元を超えた魂の兄弟たちや、あるいは自分の達成しようとして努力している目的に対して、実在界の光の天使たちが常に皆さまの心の中に働きかけて協力しているという事を知るべきです。決して寂しいものではありません。むしろ実在界にいる人たちの方が、盲目で修行して己自身の心の窓を開いたならば、彼ら自身がいろいろの力を出すことが出来ます。その時私たちは偉大なる自分の心こそ、総てであるということがハッキリと解ります。このように善導される我々の心は「己自身に忠実なることを知るべし」というように、皆さまの心は人には嘘はつけても自分には嘘がつけないように、これこそ神の子たる絶対なる証拠なのです。
やがて皆さまがこの地上界を去る時には、皆さま自身の為した想念と行為、思った事と行った事の一切を、皆さま自身の善なる心が裁くのです。その時は厳しいのです。情状酌量というこの地上界における裁判のようなことはありません。一切は自分の善なる心が厳しく己自身を裁くために酌量の余地はありません。己の善なる心に人は嘘はつけないのです。その嘘のつけない己自身というものを、正直に毎日の生活の中に活かしたならば、この世の中はもっともっと調和されてゆくはずです。
「しかるに諸々の衆生は、己の肉体に意識・心が支配され」
という意味は皆さま自身の目で見たもの、耳で聞いたもの、それを肉体の舟だけで判断してしまって、肉体の船頭さんである魂、そしてその中心である心に何の相談もしないで、つい私たちは五官でとらえたものを即座に想念に作用し想念に作用したものが、自分に都合が悪いとすぐ感情になって出てしまったり、あるいは自分自身が学んで来た、いろいろな人生体験を通して判断して逃げようとしたり、あるいは逆な言葉で返してしまう。
五官でとらえたものは即座に皆さまの想念に這入り、この中でじっくりと自分自身の本能や知性や、感情や理性というもので、噛み砕いて皆さま自身がハッキリと判断できるならば良いのですが、自分に不利益な問題を第三者から聞かされると、我々の耳を通して想念が即座に感情となって、相手を誹謗するような言葉になって出てくることになります。そうなってしまうと心の中に噛み砕いて正しく判断することが出来なくなってしまいます。
そこで我々はたとえ自分に不利益で誹謗された問題があっても、自分の心の中で第一に、なぜ私はそのようなことを言われるのだろうか、相手はなぜ私にそのようなことを聞かせるのだろうか? なぜなぜとその問題を追求しなければなりません。それをあくまでも心の中で中道を通して、自分自身を第三者の立場に立ってしっかりと眺めた時に、その原因があるならば素直に「ああ私が悪かった」今後修正しますからと言えば、心の中にいっぱい詰め込まないで済むのです。それを、私の立場が立たない、あるいは面子が立たないと自分流で心にもないことをやってしまって、更に苦しみを大きくしてしまうのです。
人間は素直にならねばなりません。我々は聞いた事、見た事を心の中で感情を入れずにしっかりと正しく判断した時に、人間は皆必ず正しい判断が出来るのです。それを自分の心の中で分解もせずに、一概に判断してしまって、心に歪みをつくってしまうことは、その人は毒を喰ったことになるのです。それは、自身の想念が曇りを発して神の光を遮ってしまうのです。そこで八正道の中において「正しく見、正しく語る」というのは、あくまでも中道という大調和を根底にされた神理を中心に、己自身を判断しなければならないのです。
(次号に続く)