人は誰しも転生の記憶を持っている。持たぬ者は一人もいない。その記憶の中には、物事の道理、人生の教訓、心の在り方、無常の真意、人生の目的、義務と責任、こういったものが記録されている。そうして、いつでもこうした記録が表面に浮かび、人生航路の羅針盤として、その機能を果たそうと出番を待っている。
ところが、多くの人はこうした心の宝を眠らせたまま六根に振り回され、一生を過ごしてしまう。あの世に帰って、シマッタ、惜しいことをした、と気付くのである。しかし、これでは遅いのだ。六根に基づいたその一生は、不安と虚無、争いと自己保存が渦を巻き、調和という神意に反した罪を生み出したのだから、その罪を償うために、暗黒の迷路で長い時間、泣いて暮らさなければならない。もっとも、人によっては努力と一念力によって無意識のうちに転生の記憶をひもとき、人々の燈台となって誤り少ない人生を送る者もいる。
転生の記憶は、どうすればひもとけるか、それには10%の意識を正し、意識の記録装置である想念帯の浄化にある。想念帯が浄化されると、想念帯の内側に眠っている90%の潜在意識が目をさまし、想念帯の一角に窓が開き、意識の表面に流れ出てくる。そうすると、今まで気付かなかった事象や道理、人の心、社会の在り方が明らかになり、人生を有意義に過ごせるようになってくる。こうなると心が自然に休まり、安らぎのある生活が送れるようになってくる。
10%の意識は、通常は五官(眼・耳、鼻、舌、身)に頼っている。つねれば痛いし、美しいものは欲しいと思う。言うなれば肉体中心の生活である。これでは想念帯の浄化は難しい。なぜなら、この現象界は肉体の他に心が存在し、心のない肉体物質はないからである。人間とは、心と肉体を合わせ持って生きている。だから、神意に通じた心を生かした肉体生活が必要なのだ。
心を生かす生活を送るには、八正道という物差しに照らし、毎日の思うこと、考えること、そうして、それに基づく生活行為を反省し、正道に反した想念行為を改めていくことである。そうして、肉体中心の執着という荷物をおろしてゆくのである。
執着から解き放たれると、人は生死の境を越えることができ、裸の自分になれる。裸になると潜在意識の奥に眠っている転生の記憶がドッと流れ出す。観自在の能力は、転生輪廻の記憶の奥に内在された偉大な仏智がほとばしり出ずるものを言うのである。
八正道は心の安らぎを得る唯一の道であり、転生の記憶こそ人生の偉大な羅針盤であることを知ってほしい。
(一九七三年五月掲載分)