(前号より)
「万生万物は、広大無辺な大慈悲なり。」
我々自身が生存出来るという事は、外を見れば植物、太陽の熱・光のエネルギー、そして地球という環境、あらゆるものをただで与えられているからです。太陽の熱・光のエネルギーを皆さん計算してみて下さい。その電気量と熱量は大変なものです。恐らく太陽が皆さまに請求書を出したなら、地球上の人は全員が破産してしまうでしょう。ガス、電力会社に使用料を支払わなければ、まあ二ヶ月も過ぎるとプツンと切られてしまいます。お天道様は絶対そんな事はしませんね。これこそが神の愛であり、慈悲であるのです。その愛と慈悲に我々は心から感謝することが必要です。その感謝する心をつい忘れてしまって、お天道さんと米の飯は付いて廻るというような考え方を持ってしまうのです。
我々はそのような大自然の恵みに対して感謝する心は、行為となって人々に対して尽くしていく、自分の心を豊かにしていく、そして又、この地上界に再び肉体を持って出てくる子孫たちに平和な調和された社会を作るための環境を我々が作っていく、こういう事が報恩という行為なのです。〝感謝する〟その事に対する我々は行為が必要なのであります。
「大宇宙体は意識の当体にして、意識の中心は心なり。心は慈悲と愛の塊りにして、当体意識は不二なることを悟るべし。」
大宇宙体は意識そのものである。意識の当体である。そうしてその中心は心だ、神の心だという事を、私はなぜこのように書いたかと申しますと、私があの世へ行きますと、この地球上と同じような太陽が出ているのです。私は初めてですから次元の違う人に、太陽が出ているといったところが、地球の太陽と、どこか違うところはないかと、このように私は言われまして、よく見れば先ず植物で、全く地上界の黒ずんだ青さではありません。何時も春先の若芽のように生き生きして柔らかく調和されております。この世よりもっと真っ青な空には神の意識(太陽の一番もとの太陽)神の心がゴールドカラー、金色の柔らかい光を放っております。そして向こうの修養所では、イエス様もモーゼ様たちも、自分の心に神の光を入れる時は、その太陽に向かって祈っております。ハハーあれが神の意識かなァと思いました。
あの世には第二太陽のような神の心が大宇宙を照らしているのです。その光は万生万物、この地球上の万生万物にも照らされております。ところが地獄界へ行ってしまうと、神の光は届いておりません。なぜならば、そこに住む人々の心が不調和であり、独善的であり、自我我欲、自己保存、自分の事しか考えない人々の多い場所であるために、彼等の想念は自らして曇りをつくり神の光を遮ってしまうからです。
この地球上にも神の光は照らされて、皆さまの心の中にも第二太陽とも言うべき神の意識・心が光を放って、皆さまに平等に与えております。その平等に与えている光を、皆さま自身の心が調和されていないと、想念の曇りをつくって、光を遮って自らして苦しみの暗い曇りに包まれてしまいます。そのように意識の中心は心なりというのは、あの世にある神の本当の心、という事でこのように書いてあります。
そこで慈悲と愛の塊だというのは、自然は我々になんの要求もしないという事です。人間はその環境において、調和された日々の生活をするという事から、心が常に不二一体である。この大宇宙は神の体であり、神の意識である。これが一体であるという事です。仏教の言葉では、色心不二という事になるのです。色という物質、心というエネルギー、これが一体だという事です。色というのは、赤、青、黄の三原色が何万色にも変化し、展開されております。皆さまの目に映る物は総て色彩を持って映じます。〝色〟とは私たちの眼で確認できる万生万物のことをいっているのです。
皆さんの肉体も色・物質です。この物質は心と同居しています。そこでこの物質をMグラムとし、これに光の積を掛けたもの、エネルギーは質量と光の積の平方に等しい、仕事を為し得る能力が即ちエネルギーである。色と心は不二一体だという事を仏教では説いております。そのためにエネルギーは不滅であり、質量は不変だと、ハッキリと現代の物理学でも証明しています。(E=MC²=hμ)
「この大意識こそ、大宇宙大神霊・仏なるべし。」
この大宇宙体を支配しているところの意識・色心不二の、この分野こそ神である、神の心であるといっている訳であります。
(次号に続く)