八正道の中に「正語」というのがある。 これは冷静、誠実、愛の心をもって語れということなのだ。心を歪んだままにしておいて語れば、その言葉は人の心を動揺させ、混乱のモトになるからである。
神は、「光あれ」と言われた。すると光があった。
「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」と言うと、水は、水と空とに分けられた。
これは旧約聖書に出てくる創世記の冒頭のくだりである。
天地創造は、神のこうした言葉によって完成された。
これは何を意味するかと言えば、言葉は神であり、言葉は生きており、言葉はものを創造する力を持っていることをいうのである。
人の中傷をしたとする。すると、第三者はその中傷に心を動かされ、中傷されている人を色メガネで見るようになろう。しかも、人の口はそれこそ自由に語られるので、言葉は生き物として人の心を動揺させ、人から人へ中傷が伝えられると、混乱は一層深くなってゆく。 善悪にかかわらず、言葉はそれ自体生き物として生き、ものを形造っていく。
憎悪の言葉、中傷の言葉、怒り、愚痴、さまざまな悪の言葉、すなわち、人心を混乱に導く言葉は、神がつくられたこの地上を悪の毒で汚すことになる。
悪の言葉を語るそのときは、悪魔がかたわらにいて、その人をそそのかしている。 過日、関西での研修会の折に、悪魔に心を乱された人がいた。一部の人びとはその人の言葉を信じ、心が揺れた。
悪魔に乱されたその人は、わずかばかりの霊力や自分の能力を過信し、増上慢になっていた。そのため、本来の自分を見失い、自分は真実を語っているかのような錯覚に陥り、苦悩をつくった。幸い大事に至らず、本人も、そしてその周囲も平静を取り戻すことができたが、私たちの周囲には絶えず魔の波動が送られ、極めて巧妙なうちに私たちの心の中にすべりこんでくる。そうして、言葉を通して人の心を混乱に陥(おとしい)れる。
忘れてはならない。私たちが平常心を失い、心が不安になり、人を憎んだり、気が滅入ったりしたときは、心を落ち着かせ、平常心に戻るまでみだりに語ってはならない。言葉は、それ自体生き物として、人の心を動かし、人びとの行動を規制するからである。
(一九七六年五月掲載分)