宗教というといかにも抹香臭く、念仏をあげたり経文を学ぶことのように思われているが、そんなものではない。宗教の目的とするところは人間の心を知ることであり、その心が分かれば自然の理も明らかとなり、人間としての在り方、安らぎが生まれてくるものである。俗に、安心立命とも言われているが、この言葉の意味よりも実はもっと深く、広いものであり、己自身の調和と同時に、地上の調和を図ることである。したがって、この目的から外れたものは宗教とは言えない。いたずらに殿堂を造り、信者を増やし、我こそはと反り返るものがあるとすれば、それは宗教の本旨から遠く離れたものである。
一方、科学の目的は自然の解明にあると同時に、地上の調和(生活を豊かにする……)に役立つためにある。化学にしろ、物理学にしても、自然の不思議を究明し、人間生活をより豊かにエンジョイするためにあるのである。
宗教と科学――、この両者は一見異なった世界、次元の違う分野のように思われるが、その目的を分析解明してゆくと、全く軌を一にするものであることに気づく。
宗教も科学もこの人間社会をより進化させ、豊かにするためにあるからである。宗教は人間の心を解明(知る)する。科学は自然のその不思議さの中から自然を動かしている法の存在の発見に努め、解明する。したがって、その行き着くところは共に同じである。自然を科学すればするほどその神秘さが分かり、偉大な科学者ほど神の実在を信じるようになる。即ち、自然の解明は人間の解明につながってくるからである。逆に、人間の解明は自然の謎を解くカギが与えられる。このように、人間と自然というものはもともと一つであり、人間と自然を切り離して考えることはできないからである。
大自然を大宇宙と言い、人間を小宇宙とも言う。地上の水圏は71%、陸地は29%である。人間の肉体も水分が71%、蛋白質、燐酸カルシウムなどの部分が29%である。地球と人体の構造は全く同じように作られている。また、人間が誕生する、或いは他界するその時間も、女性の生理現象についてもバラバラではない。干潮・満潮に密接な関連を持っている。このように、科学する心はそのまま宗教の目的である人間の心、自然の心、宇宙の心につながってゆき、大自然の法である正法の存在に突き当たってくるのである。
それゆえに、正法神理というものは物理学でも化学の面から推しても解明されてくるものである。もしも既成の宗教で自然科学の面から割り切れないものがあるとすれば、その宗教はどこか間違いがあると言うべきであろう。もっとも地上の科学は正法そのものを未だとらえてはいない。しかし、正法は今日の物理学の範囲内でも、結構うかがえるものである。
(一九七一年四月掲載分)