かつて「人類の進歩と調和」をかかげたある首相の政治目標は、いつの時代にも、新鮮さを失うことはないであろう。何となれば「進歩と調和」は常に古くて新しい、革新とか保守といった思想を超えた、人類の願いがこめられているからである。ここで私が重視する点は、調和ということである。その調和も、一つの政治理念、経済理念を超えたところの人間としての調和、人間としてあるべき調和についてである。そうして、人間としてのあるべき調和が実現すれば、人類の進歩は現在以上のテンポをもって進むであろうし、世界の平和も期せずして達成されると思うからである。
そこで、人間としての調和はそれではどうあるべきか。何に調和するかである。まず、人間は大自然の姿に眼を向けなければなるまい。大宇宙という空間、その空間に点在する星雲、太陽、地球、そうして山川草木、空気、水。こういった自然の環境を抜きにして、人間の存在は考えられぬ。大自然の中に生きている人間。大自然の外には出られぬ人間。こう考えると人間の在り方は、大自然の姿に合わせた生活、心の持ち方が人間としての調和の尺度にならなければならない。
すなわち、大自然は、一糸乱れぬ法則の下に正しく運行されている。太陽の熱・光のエネルギーにしても、地上の生物が生存するに必要な適温をもって放射しており、空気にしろ、水にしても、いくら使っても減ることもなければ増えることもない。仏教でいう不増不減である。こうした大自然の姿を静かに眺めてみると、そこに神仏の計らい、神仏の智慧、神仏の慈悲、神仏の愛が存在することに気づく。即ち、大宇宙は神仏の胸の中で呼吸し、生きているということになる。
人間は、程度の差こそあれ、真善美を見わける能力を持っている。これを要約すれば、己の心にウソのつけぬ心を持っている。言うなれば、神仏の心である。神仏の心とは、慈悲と愛の心である。人間が五官や六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)にふりまわされてしまうために、本来の神の子の己を失っているにすぎない。
破壊や闘争、血生臭い空気が地上を覆っている原因についても、人間が神仏の慈悲と愛の心に不調和であるからである。この地上を平和にする、この地上を天国とする、この地上を楽土とするためには、神仏の子である一人ひとりの人類が、大自然という神仏の心「慈悲と愛」に適う心を、素直に日常生活に現してゆく、行じてゆくことにある。
したがって、人間の調和とはどういうことであるかと言えば、慈悲と愛の心の芽を育てることにあるわけである。そうして進歩と調和によって促されるものである。なぜなら、調和は神仏の無限の智慧が供給される光のパイプであるからである。
(一九七一年七月掲載分)